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やきもの 京焼の陶工で辿る江戸時代
随分と店主、張り切っているでしょ?
ここだけは押さえてね!と言う意味合いを込めて。。。

将軍 徳川家光公の時代の話から明治までを京焼の名工で辿ります。

家光公の頃、活躍していたのが京焼の名工 野々村仁清(ののむらにんせい)
先日のコラムでも国宝指定されている作を残した人物として、チラリと御紹介しましたが、その名工の流れを御紹介致します。

時代は正保(しょうほう)1644〜1648年です。江戸時代です。

野々村仁清は、この頃に京都で窯をひらきます。
場所は仁和寺の門前です。

茶の湯で使う楽焼以外のもので、京都で焼かれたものを全て京焼とします。
特徴を伸べるのは非常に困難なやきものでもあります。
なぜなら、その多彩な色彩や地色に決定的な特徴は上げられません。
優雅で華やかな趣きを放つのが京焼・・・。

野々村仁清に師事したことで有名な尾形乾山(おがたけんざん)1663年(寛文)〜1743年(寛保)
[将軍は家綱、綱吉、家宣、家継、吉宗]←の頃とわかりやすく将軍を以下記載します。

兄が画家の尾形光琳(おがたこうりん)1658年(万治)〜1716年(享保)であります。
燕子花図屏風で有名ですね。構図が江戸時代とは思えない程、現代で言うデザインを感じさせます。呉服商の次男というのは皆様、御存知かとおもいますが、一応記載致します。その光琳と弟、尾形乾山は共に合作を生み出しました(今回は京焼を辿る為、絵や蒔絵等の御紹介は省きますが、光琳の八橋蒔絵硯箱も素晴らしいです)


京焼の名工の流れで登場するのが奥田穎川(おくだえいせん)1753年(宝暦)〜1811年(文化)
[将軍は、家重、家春、家斉]

既に時代は幕末へと突入しておりますが、政治・外交・経済・社会・文化においても様々な出来事があるなか、奥田穎川の元には青木木米(あおきもくべい)1767年(明和)〜1833年(天保)が学びに来ている事から、九谷の再興に繋がります。

青木木米以降の名工としては、欽古堂亀祐(きんこどうかめすけ)1818年(文政)〜1844年(弘化)、仁阿彌道八(にんあみどうはち)1782年(享和)〜1855年(安政)が有名です。仁阿彌道八とは二代高橋道八と同じ人物です。お庭焼、偕楽園焼の窯を開いた方です。

(高橋道八については…またの機会に)

[将軍は家斉から、家慶、家定の時代までの話です]

その後の将軍、家茂の時代になりますと、益々社会情勢が賑やかになり、福沢諭吉が蘭学塾を開く中(1858年)橋本左内・吉田松陰は死刑(1859年)勝海舟らは渡米・桜田門外の変(1860年)
等々の時代を経て、1866年薩長連合、改税約書調印、第二次長州戦争、将軍家茂没、慶喜将軍となり・・・1867年、時代は明治へ(この辺りは省略させて下さい)

(その頃、海外では1865年にリンカーンが暗殺されております)


と、京焼の名工の話から歴史の話になるのは致し方なく・・・。

この時代に活躍した文人画や写生画、浮世絵等は日本の教育の中で自然と脳裏に焼き付くものが多いので、誰もが「見た事ある!」と仰るものがほとんどかと思います。
それらを記憶とは別の目線で観賞しますと色々なものが感じられ、時代背景までもが浮かび上がるかと思います。

この時代には『美術』・『芸術』の概念は無い時代です。
明治になり、ようやく皆様がお馴染みの『美術』・『芸術』と言う、いわばカテゴリーに分けられます。

こちら側の記憶や、美術と言う枠を取り払った状態で感じられるものが、その物の価値かと思われます。

観賞の仕方は様々ですが、目線を変えることにより感じるものも異なるかと思います。

自己の発見にも繋がりますので、お試し下さい。

京焼の流れとさせて頂きましたが、こちらは江戸期に栄えたやきものとして伊万里の次ぎに御紹介したいやきものでしたので、敢えて作者名で時代を辿りましたが、同時期に、たくさんの陶工が全国各地で切磋琢磨して生み出したものを御覧頂けましたら幸いです。

銘に拘る事なく、そのものを大切に後世に繋げた方々の想いと共に、歴史を遡るのも想像が膨らみます。

想像を鍛えることにより世界観までも覆す日々をお過ごし下さい。



ここまで、お付き合い頂きありがとうございます。


更に追記させて頂くのであれば、古美術の分野で・・・。


1868年 神仏分離令『廃仏毀釈運動』

なにも申し上げられませんが、日本の歴史です。


以上です。



店主 拝